本田宗一郎 人生と名言の源流

本田宗一郎は、誰もが知るオートバイ、自動車製造の「ホンダ」を創業した人物です。

彼は、技術者としても経営者としても非常にユニークな存在でした。技術者としての彼は、物作りへの情熱と独創性を持ち、同時に経営者としては、チャレンジ精神と独立心を大切にしていました。

彼の名言の中に、

「自分の手で松明(たいまつ)をかかげる」

といったものがあります。

これは、「誰かに頼るのではなく、自分自身で道を切り開く」という彼の信念を表しています。

本田宗一郎の人生を振り返ることは、今を生きる私たちにも大きな教訓になるでしょう。

 

「HONDA CBR、写真は多分2017年くらいのモデルだけど、1980年代からデザインの原型は変わってない。

  …かっこいい。」


1.人生年表ハイライト

1906年: 静岡県磐田郡光明村(現:浜松市天竜区)に生まれる

1922年: 高等小学校を卒業後、東京の自動車修理工場「アート商会」に丁稚奉公として入社

1928年: アート商会浜松支店を設立し独立

1937年: 自動車修理だけでなく、自身のメーカーを作ることを志し、浜松高等工業学校で金属技術を学び始める

1939年: ピストンリングの製造に成功し、トヨタ自動車に納入

1946年: 本田技術研究所を設立

1948年: 本田技研工業株式会社を設立し、オートバイ生産に着手。「ドリームD型」エンジンのオートバイ開発に成功

1962年: 小型オートバイの販売台数でトップに立ち、自動車産業にも進出

1973年: 本田技研工業社長を退任し、副社長の藤沢武夫と共に取締役最高顧問に就任

1989年: アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす

1991年: 東京都文京区で死去。享年84歳

 

「22歳で独立後、33歳で新規事業のためにもう一度勉強しなおしてるんだね。トヨタに納品した部品がリコールになっちゃって、それがきっかけなんだって。

社会人になってからもう一度学校に入りなおすって、今では珍しい話ではないかもしれないけど、当時はどうなんだろう。すごいバイタルだと思う。日本は日中戦争真っ只中だね。」


2. 幼少期と人柄

機械いじりに夢中だった少年時代

本田宗一郎は子供のころから「機械いじり」に夢中でした。まだ小学生の頃、彼は自転車や機械を分解しては元通りにするのが大好きだったそうです。

これはまるで、今の子供たちがプラモデルやレゴを組み立てるような感覚で、どんな仕組みなのかを知りたくて仕方なかったのです。

この好奇心が後の発明や技術革新につながりました。


起業を目指した青年時代

彼は15歳で「アート商会」という自動車修理工場に弟子入りしました。

アート商会は航空機の製造を志して技術を習得した榊原郁三が1917年に設立した会社で、自動車修理工場としてもその高い修理技術力が評価されていました。

 

ここで彼は技術者としての腕を磨き、自動車の修理や改造に挑戦しました。これは、単に技術を学ぶだけでなく、「どうすればもっとよくなるか」を常に考える経験だったのです。

この時期に本田は「物を作る楽しさ」を実感し、「いつか自分の会社を持ちたい」という夢を抱くようになりました。

1928年、21歳の本田はのれん分けの形で「アート商会浜松支店」を設立し、その夢をかなえる形になります。

「ライト兄弟の飛行成功が1903年だから、当時の情報伝達速度を想像するとこの榊原さんもやり手の技術者だよね。」

本田がのれん分けで設立したアート商会浜松支店

3. 技術者から革新者への道


アート商会での学び

アート商会での経験は、本田宗一郎を技術者として成長させました。自動車のエンジンを分解し、再び組み立て直すことで「どうすればもっと速く、もっと強くなるか」を考え続けました。彼にとって、これは学校で教わるようなことではなく、自分の手で学び取った「生きた知識」でした。

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「座学だけだと、なかなかね。料理のレシピ本だけでは味は分からないですし。違うか…」


ホンダ技研工業の創業

1946年、第二次世界大戦終戦直後の日本は物資が不足していましたが、本田宗一郎はこの困難な状況で「ホンダ技研工業」を創業しました。

最初はバイクの製造から始まりましたが、彼はバイクの改良を繰り返し、ついには自動車業界にも進出します。これには非常に大きな勇気と挑戦精神が必要でしたが、彼は常に「やりたいことをやる」という強い意志を持ち続けました。


4. 経営者 藤沢武夫との出会い


藤沢との運命的な出会い

本田宗一郎にとって、ビジネス面でのパートナーとなったのが藤沢武夫です。

本田技研設立3年目の1949年の出会いでした。

藤沢は、経営やお金のことをよく知る人物で、本田の技術と藤沢の経営が組み合わさったことで「ホンダ」は大きく成長しました。

これはまるで、一人が車のエンジンを担当し、もう一人が車のハンドルを握っているようなもので、二人が力を合わせて初めて車は正しく進むことができました。


「持たざる者」としての挑戦

本田と藤沢は、当初、資金や設備が十分ではない「持たざる者」でした。しかし、彼らはその状況にめげず、販売網を作り上げ、製品を世界中に広めていきました。特に藤沢の経営手腕により、彼らは困難な状況を乗り越えていきます。この時の本田の挑戦には、「他に頼るのではなく、自分たちで道を切り開く」という強い意志が込められていました。

「藤沢を紹介したのは経産省(当時の通産省)の技官だったそうだから、国にとっても重要な産業だという認識はあったんだろうね。」


5. リーダーとしての哲学


エンジニアとしてのリーダーシップ

本田宗一郎は、経営者でありながらも常に「技術者の目線」を忘れませんでした。彼は「現場が一番大切だ」という考えを持ち、実際に工場で働く人たちの意見をよく聞きました。このリーダーシップスタイルは、現場の人々にも大きな信頼を与え、ホンダの製品が世界中で愛される理由の一つとなりました。


挑戦とリスク

本田は、最新の機械を導入するために高額な投資をためらわなかったといいます。もちろん大きなリスクになることもありましたが、彼には「良い製品を作るためには、最高の道具が必要だ」という信念がありました。彼は、挑戦を恐れず、リスクを取ってでも未来を切り開こうとしました。


「松明は自分で掲げる」

ホンダのキーワードの一つでもある「松明は自分の手でかかげる」は、彼らが他人に頼らず、自分の力で物事を成し遂げる姿勢を示しています。彼らは「誰かに助けを求めるのではなく、自分の手で未来を切り開く」という強い意思を持っていました。この精神は、今日の多くのリーダーたちにも影響を与えています。

「これは相棒の藤沢の講演の中の言葉なんだけど、かっこいいよな。この経営陣の結束力、同じ方向を向いていることの力が、ホンダ躍進の原動力かもね。」


ホンダの世界的な成功

本田宗一郎が作り上げた「ホンダ」は、バイクだけでなく、車やその他の製品でも世界中で成功を収めました。特に自動車業界では、「ホンダ・シビック」や「ホンダ・アコード」などのモデルが大ヒットし、世界市場でのホンダの存在感を確立しました。


受賞歴と栄典

本田宗一郎は、その功績により数々の賞を受けています。例えば、日本政府からは「文化勲章」を授与されるなど、彼の技術革新と社会貢献が広く認められています。

ホンダ シビック S2000

「シビックといえば初代ワイルドスピードのイメージ。」


「失敗してもいい。大切なのはそこから何を学ぶかだ」

本田宗一郎の名言の中でも「失敗してもいい。大切なのはそこから何を学ぶかだ」という言葉は、彼の挑戦と学びの姿勢を象徴しています。この言葉には、失敗を恐れずにチャレンジすることの大切さ、そしてその失敗から学び続けることで進歩していくという強いメッセージが込められています。

彼は、人生やビジネスにおいて避けられない失敗を、前向きに捉えることが重要であると常に説いていました。例えば、彼自身もホンダ技研工業の創業初期には多くの困難や失敗を経験していますが、それをネガティブに捉えるのではなく、次の成功への「準備」として捉えていました。この名言は、失敗をただの結果ではなく、成長の糧に変えるという彼の前向きな精神を象徴しています。


「失敗を恐れず、リスクを取る」

「リスクを取ることなくして、革新はない」という精神もまた、本田宗一郎の名言に現れています。彼は挑戦を恐れず、リスクを取ることで未来を切り開いてきました。この姿勢が彼の成功の根幹であり、「最高の製品を作るためには、最高の道具が必要だ」という信念に基づき、最新の技術や設備に投資することを惜しまなかったのです。

例えば、ホンダの自動車事業への進出は、バイクでの成功とは全く異なるリスクを伴うものでした。しかし、彼はそれを恐れず、自分のビジョンを信じて突き進みました。この挑戦には、未来に対する大きな信念と、リスクを恐れずに行動する力が必要でした。

このように、リーダーにとってリスクを取ることは不可欠であり、リスクを恐れない姿勢こそが革新を生み出す原動力になるという教訓を、この名言は強く伝えています。

「失敗を成功への準備と捉える、というのはすごく前向きになれる考え方だと思うな。

実際本田は、自転車用補助エンジンの開発失敗が大ヒットした<カブ>の開発につながったり、F1事業でもいったん撤退を喫するも、復帰後大きな成績を残しているんだ。」


8. 引退と賞賛


引退とその後の活動

本田宗一郎は、ある時期を迎えると経営の第一線から退きましたが、その後も若手技術者や経営者への助言を行いました。

引退後も工場や開発現場を訪れ、そこで働く技術者やエンジニアたちと直接話し合う機会を持っていました。彼は現場の声を大切にし、若手技術者たちに「失敗を恐れず挑戦すること」や「創造力を発揮して独自の解決策を見つけること」を常に強調していました。

特に、製品の設計や開発の現場では、技術的な問題に対する実践的なアドバイスを行うこともあったと言われています。本田は、自分が現場で得た経験を基に技術者たちに具体的な助言を提供し、それがホンダの製品改良や革新に役立つことが多々あったといいます。


数々の受賞

本田宗一郎は、引退後もその功績により国内外から多くの賞や栄誉を受けました。

本田宗一郎は、1989年に日本政府から「文化勲章」を授与されました。文化勲章は、日本の文化、科学、技術などの分野で顕著な業績を残した人物に贈られる非常に権威ある賞です。本田は、ホンダ技研工業を世界的な企業に成長させただけでなく、バイクや自動車技術における数々の革新をもたらし、日本の産業技術を国際的に高めた功績が認められました。

ほか、1980年にはフランス政府から「レジオンドヌール勲章」、1981年にはドイツ政府から「大功労十字勲章」、1989年、アメリカの「自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)」、没後の2000年には日本の「日本自動車殿堂(Japan Automotive Hall of Fame)」にも殿堂入りしました。

これらの受賞は、単に本田宗一郎個人の成功を讃えるだけでなく、彼が築いたホンダという企業の精神と、それが社会に与えた影響を評価するものでもありました。

「アメリカの自動車殿堂入りは、トヨタ創業者よりもはやく日本人として初めてのことだったそう。当時はアメリカ車とのシェア奪い合いの時代だろうし、すごいことだよ。

1982年に日本車の製造工場を初めてアメリカに作ったのも影響しているみたい。利益追求ばかりじゃなくて、地域に根差した産業、ということもすでに考えていたんだな。」


むすび

本田宗一郎の人生と名言は、技術革新やリーダーシップにおいて多くの示唆を与えています。彼の挑戦精神や自己責任の姿勢は、現代に生きる私たちにも大きな影響を与え、未来を切り開くためのヒントとなるでしょう。

「正直自分は、こんなに立派な人間にはなれないと思うけど、マインドの一端を知ることはより良い明日に向かうための一歩だと思ってる。」